世界ナイフ紀行 -- ミャンマー
ヤンゴンの暑い冬


   ボージョー・アウン・サン・マーケットの賑わいは私の想像を遥かに越えていた。数えきれぬほどのみやげ物屋、織物屋、絵画・骨董の店が一つの大きな建物のなかに収められている。観光客よりもむしろ、日用品を買うために集まった現地の人達がめだつようだが、それに混ざって、オレンジ色の袈裟を羽織った老若男女の僧、「マネーチェンジ」と小声で囁く男たちが行き交う通路に、私は一人嘆息した。
    11月に入り雨期が終ると同時に、暑さが剥き出しになってきたのだ。連日30度を越える暑さだが、これからが一年で一番暮らしやすい季節と言われるだけに、日のあたらぬ建物のなかは多少涼しい。

   実はここには先週の土曜日も来ていた。その時、黒檀の像を売っている店で、次の土曜日に5〜6キロの原木を持ってきてもらう約束をした。もちろん、ナイフのハンドルにするためだ。今日はその約束の日、午後1時。まだ時間はある。黒檀の固まりを持てば身動きも不自由になると思った私は、先ずはいつもどおりにナイフを探すことにした。
(写真)きれいな衣装をまとった、チーク材の人形。子供が持っているが、すごく重そう(写真)  
   一件の骨董品屋に入ってみた。ミャンマーの伝統芸能の一つに操り人形を使った芝居がある。当然その操り人形がみやげ物では人気となっている。王様、大臣、巨人、ガルーダたちが、チーク材の体にきらきらとした衣装をまとい壁に掛けられている。巨人は大きな頭の上に九つの小さな頭がついていて、日本の鬼によく似ている。驚くほど安いけれど、それでも公務員の給料の二ヵ月分だ。驚くほど高いとも言える。
(写真)ヤンゴンで買った唯一のナイフ。クロームメッキに銀の糸が張り付けてある(写真)

   ショーケースのなかにはバンコックで見つけた銀色の短刀と同じものが大小様々並んでいた。やはりここで買うほうが安いようだ。しかし、本当に同じだろうか。バンコックのものは柄も鞘も黒ずんでいた。あれは銀でできている証なのだそうだ。ミャンマーのみやげ物屋には銀細工の工芸品が並んでいるが、確かにあれと同じ模様ではある。とはいえ、アンティークであるはずのこのナイフの鞘には錆のかけらも浮いていない。なにやらクロームメッキくさい。まぁ良い。一応、形はそれらしいし、値段も3千円だ。ここで人形と短刀を買った。
   人形が重くて、結局身動きが不自由となってしまった。この上さらに黒檀を買い込んだら日本へ持ち帰ることができるかどうか怪しくなってきた。しかし、私はあの民芸品の男と約束したのだ。必ずここへ戻ってくると。
   男はいなかった。あの馬鹿野郎はいなかった。他の店員では埒が明かない。しばらく粘った末に諦め、人形を抱えフラフラと建物を出た私に
「ヘイ、ミスター、マネーチェンジ」というお馴染みの声がかかった。闇の両替屋である。
「ノーサンキュー」と言って待たせてあるタクシーのほうに向かおうとする私になおも
「ホーセキ、ホーセキ、ベリーベリーゴージャス」と言いながら、粗末なわら半紙にくるんだ緑色の石を見せてきた。闇で買った宝石は国外に持ち出し禁止であることを知っていた私は「ノー」の一言。目当ての黒檀が買えず、腹の虫の居所も悪かった。
   しかし、考え直した私はその男に黒檀の固まりは売れないかと持ちかけた。この手の商売をする人間に不可能はない。仮に不可能でも
「イエス、アイ・キャン」と答えるのが常だ。元締めのみやげ物屋にあると言うので、後についてもう一度建物のなかに入り、先程とは別の店に来てみるとやはり完成品しかない。
   しかし、親父の鞄を掛けてある大きな像に私は目を付けた。高さ60センチ余。細身だがナタの柄は充分とれる。しかも同じ大きさのものが二体ある。 一つ50ドル以上吹っ掛けてきたが、交渉の末二つで70ドルとなった。親父は最後に言った。

「原木は国外への持ち出しは禁止だよ」

   それは知っていた。現地の商社員も同じことを言っていたのだ。しかしスーツケースの中に入れてしまえば、ほとんどノーチェックである事も知っていた私は、知らぬふりで持ち帰るつもりだった。
   ここへの入国のときも商社の現地人社員の手引きでパスポートコントロールの列にも並ばず、彼に手を引かれるまま横の通路を抜けた。まるでVIP待遇である。荷物を引き取っているうちに、いつの間にかパスポートにスタンプも押され、全てノーチェックで空港を出てしまっていた。こういうでたらめがまかり通るうちは、この国もダメだろう。
(写真)ヤンゴン市内の路地裏にいた犬。オッパイが牛のようにたくさん垂れ下がっている(写真)
(写真)菩薩のような顔の黒檀人形が二つ(写真)  しかし、いつまでもダメでいて欲しい国だ。
   人はたしかに貧しい暮らしをしているようだが、この町並みの美しさはどうだろう。極彩色の薄い布をまとい、悠然と道を歩く人達の顔に貧しさ、卑しさは微塵もうかがえない。仕事で出会う人達は、一様に誇り高く、かつ、にこやかで正直だ。巷の人もまた同様である。
   あちこちの国でそうだったように、その良さが、こぎれいなビルが一つ建つたびに失われていきそうだ。場所によっては交通渋滞も起こりつつあるという。まだまだバンコックには遠く及ばないが、喧騒は日増しに足音を高くしつつあるようだ。私の危惧は旅行者の身勝手な感傷だろうか。
(写真)女人禁制の寺の門の前で、中に入った父親を待つ少女が座りながら居眠りをしている(写真)
   さて今、鳥のような声で鳴くヤモリが壁を這うホテルの部屋で、床に置いた二体の像を前に私は考え込んでいる。
   若い女性の像なのだが、まるで仏陀のような顔つきだ。果してこれをばらして祟らないものか。私も迷信深いわけではないのだが、なにやら不気味でしょうがない。いやいやその心配は私が首尾よく、この二体の重さにめげず日本へ持ち帰ってからのことだ。そのためにも、この暑さにめげずしっかり食べて体力をつけなくてはならない。
 
1995年11月


  付録
ミャンマー語講座

 

   ミャンマー政府は外貨獲得のために観光客誘致に熱心です。確かに見るものはたくさんあります。私もおすすめすします。

   ミャンマーの観光地ではおおむね英語が通じます。ときに日本語さえ通じます。土産物屋など、偽札の多いドルよりは円を欲しがることもあります。でも、英語や日本語だけでは安い買い物はできません。
   同じ距離の自転車タクシーでも、英語で交渉した場合はミャンマー語のときの倍はふっかけられます。ちょっとした用を足すにはなるべくミャンマー語を使った方がウケもよいようです。
   ところがミャンマー語のテキストは滅多にありません。実戦で痛い目に遭いながら覚えていくしかないようです。

   当地では一月半の長逗留となり私も片言のミャンマー語を駆使するようになりました。首都ヤンゴンでの滞在中は閑静な住宅街にある小さなホテルに住み着きました。家庭的な雰囲気で、ときおり大柄な美人の支配人から肩を揉んでくれなどと言われ、言われるがままに揉んでいた私は、本当にあそこの客だったのか未だに疑問を感じています。
   ある日従業員一同から髪がむさ苦しいので床屋へ行けと言われ、仕方なしドアも壁もない近所の床屋へ行きました。一日に数時間は訪れる停電の時間帯ではなかったので、特大のバリカンもいきおいよくウィーンとうなりをあげていました。
   ホテルで習い覚えたミャンマー語と身振り手振りで意志の疎通を図り、何とかなったはずなのですが、終わってみるとマッシュルームカットどころか椎茸のような頭になってました。耳から下の毛がきれいに刈り取られていたのです。なぜそうなったか?

 

ミャー・ミャーとネー・ネー

「どれくらい切りますか?」
「ミャー・ミャー(少しでいいですよ)。」
「はいわかりました。"ウィーン・ウィーン・・・"これくらいでいいですか?」
「(ずいぶん短く刈られたな。これじゃ刈り上げだ)ミャー・ミャー(少し)でよかったのに。」
「そうですか、それじゃ"ウィーン・ウィーン・・"今度はどうですか?」
「(これじゃマコトちゃんだ!)ミャー・ミャーだって言ったのに・・・。」
「はいはい、"ウィーン・ウィーン"」
「(なんだか様子がおかしい。もう黙っていよう。)」

   賢明な読者はもうお気づきでしょう。私は"ミャー・ミャー"を"少し"という意味で使っていたのに、それは"もっと・もっと"ということだったのです。
   "少し"は"ネー・ネー"です。床屋でこれを間違うと椎茸のような頭にされます。気をつけましょう。
   賢明ではない私は日本へ帰ってからもしばらく人から馬鹿にされ続けました。
 

イェー・イェー

   静かな住宅街というのは休日に惰眠をむさぼるためにはおあつらえ向きです。しかしながら近所を通りがかりに、大声で
"イェー・イェー"
と叫ぶ子供がいるのに悩まされました。
「この国でもマイケル・ジャクソンが流行っているのか・・」と思ったのですが、そうではありませんでした。
   ある日ホテルの昼食で従業員がからのコップを指さして
「イェー・イェー?」と聞いてきます。
   彼女は「水がほしいか?」と私に尋ねたのです。
   早朝の子供の大声は、上水道も井戸もない家庭のために、水を瓶に入れて売り歩いているものだったのです。そうとわかってからは、早朝に起こされても不快と感じることはなくなりました。
   上水道の普及に伴い、この声もあまり聞こえなくなってきているそうです。

  

(写真)仕事が終わってホテルの裏でくつろぐミャンマーの少女達(写真)

どんなカレーを食べましたか?

ホテルの従業員はこちらの語学力にはお構いなしにミャンマー語で話しかけてきました。ある晩、夕食後に
"ベー・ヒン・サーチー・レー?"
と聞いてきたボーイがいます。わからない単語を辞書を引いて英語に直し、どういう意味か理解しました。それは
「どんなカレーを食べましたか?」と言う意味だったのです。
   その晩私はカレーを食べたかどうかは覚えてません。でも、少なくとも彼にカレーを食べたことは言ってませんでした。臭いでわかる距離でもありません。
「どうしてそんなことを聞くんだろう?」と自問した私は、英語で書かれたミャンマー語会話のテキストをなめるように読みながら納得しました。それは単に
「こんばんは」という夜の挨拶だったのです。
   この国ではこれが挨拶になるほど皆が皆、いつでもカレーばかり食べているのです。ただし、具のヴァリエーションが多いのです。そこで
「なにのカレー」かを聞くのです。言葉は生活を反映します。大阪人の
「もうかりまっか?」と一脈通じるような気がします。

   ちなみにチキンカレーはチェッター・ヒン、豚肉ならワッター・ヒン、エビはガズン・ヒンだったと記憶します。牛肉や蟹も入れることがあります。チェッター・ヒンがイチ押しです。牛だけはやめましょう。どこで食べてもひどいです。たぶんあれは老衰死した水牛の肉でしょう。
   個人的な好みを言えば、私は一度エイミャウン・ヒンが食べてみたい。ミャンマーの味がしそうです。

(写真)エイミャウン(ヤモリ)が部屋の壁に張り付いている(写真)