世界ナイフ紀行 -- ミャンマー
 
パガン 2
馬車の旅は楽し
 
 
 パガンへ来てから二日も自転車に乗り、数十キロをこなした。三日目はお尻が痛くてホテルで完全休養日とし、四日目、いよいよめあての馬車に乗ることにした。午前9時、ホテルの門を出ると数人の御者が木陰にたむろしている。幾らかと問えば3時間で200円という安さ。6時間借りることにした。
(写真)馬車に乗り、マドンナのお尻をみながらアーナンダ寺院へ向かうところ(写真)  高校の歴史の時間に習ったアーナンダ寺院はここにあった。草むらを15分も馬車で行けば着いた。
    道すがら御者が自己紹介をした。「俺の名はフミョー、馬車ナンバーは28。馬の名はマドンナだ」 
    歳は40過ぎだろう。50くらいにも見える。マドンナはその名のとおり綺麗な雌馬だが、癇癪持ちである。いきなり止まったり、急に走りだしたり、うかうかしているとマットレス敷きの荷台から転げ落ちそうになる。道端に犬が寝そべっていると怖がって立ちどまってしまう。親切な通行人が石を投げて犬を追い払ってくれた。
 アーナンダ寺院は外観も美しいが中も見事だった。幾何学的に巡らされる通路はあちこちで入り組み、しばらく前に通りすぎた場所が幾つかの窓を通して遠くに見える造りになっている。
    次のダマヤンジー寺院も立派だが幽霊が出るといういわくつきの遺跡。プロの土産物屋は殆どおらず、そのかわり日曜日だったせいか子供のアルバイトが10人ほどもいただろうか。頼みもしないのに若い男がガイドを請け負ってくれた。帰りにはこの男が焼いたという、陶器の鬼の首を200円で買わねばなるまい。
(写真)寺院の前で土産物を売っている少女が、仲間でついてきてまとわりつく。壁にコウモリがとまっていて、それを見てはしゃいでいる。顔にはタナカが塗ってある(写真)
 ところで、ミャンマーの女性の多くは「タナカ」とよばれる木の粉を水にとかし顔に塗っている。化粧というわけではなく、これを塗ると涼しいからだという。確かに水で溶かしているので塗ったときはひんやりとして気持ちがよい。でも乾くとただの白い粉が顔に張り付いているだけだ。
    ダマヤンジー寺院の入り口で待ちかまえていた子供たちも例外なくこれを塗っていた。だが都会ではこのタナカも、次第に塗らない女性が増えてきている。ホテルの従業員の言葉を借りれば、外国人風の化粧のせいで不要、もしくは邪魔になってきているからだそうだ。私はこのタナカを決してきれいだとは思わないのだが、消えてほしくない風習だ。
 ダマヤンジー寺院を作らせたのは、親兄弟を殺し王になった男。親と兄を弔うための仏像の前で写真を撮ってもらった。罪滅ぼしのためにこの寺院を作ったというが、志なかばで死に、その後工事を引き継ぐ者もなく、未完成のまま現在に至っている。
    あちらこちらに普通では考えられない様式が用いられ、謎の多い寺院だ。工事の途中で、積まれた煉瓦と煉瓦の間に針を刺しこめるだけの隙間があると、それを作った職人の腕を見せしめに切り落としたという。そのための石のまな板も展示されていた。インドから迎えた妻もまた殺し、その妻のための寝姿の仏像もある。反省するためだけに罪を犯し続けた男の末路は、当然ながら暗殺による死だった。
(写真)ガイドを買ってでた男が、石のまな板の上に自分の腕を乗せて、切る真似をしている(写真)


 馬車はダマヤンジーから一路ニャンウーにあるマーケットへと向かった。途中の草原でフミョーが話しかける。

  「あんたはついているよ。俺は今日、いいルビーを持ってるんだ。2千円で売るよ」

  これで馬車の料金が安いわけが分かった。6時間の料金の3倍以上をガラス玉で儲けるのだ。この先遠く離れたニャンウーまで行って、マーケットをうろついているあいだに雲隠れされても困るし、今この野原の真ん中で放り出されるわけにもいかない。そこまでひどいことはしないにしても、御者との関係をまずくすればこの先の道のりが面白くない。千5百円に値切って買うことにした。これくらいは馬車の料金として覚悟していたのだから。

  ニャンウーのマーケットに土産物屋は多くない。しかし、入口から一軒目で早くもナイフを見つけた。
  見覚えのある逸物。帝国陸軍の短剣のレプリカだった。大戦末期のパガン近辺は有名な激戦地でもあり、日本軍だけで30万の兵が投入され、生きて帰った者は10万に満たないとも言われる。軍刀は至るところに落ちていただろう。見様見まねで作るだけの技術は彼らも持っているのか、それとも日本の敗残兵に鍛冶屋がいて、ここに住みつき作ったのか。いずれにせよこれは欲しくなった。どこの国でも日本刀の土産はざらにあるが、ミャンマーで軍刀とは、特にお国柄がでている。
  半額に値切って千円ほど払った。値切りすぎたのか、包装もしてくれず、袋もない。私が身に着けていたミャンマーの民族衣装のロンジーとタイポンは、ちょっと見ると羽織袴のよう。足は素足に草履。これで脇刺のような短剣を隠しもせずに持って歩けばまるで時代劇だ。自意識過剰なのか、やたらと土地の人の視線を感じる。

(写真)日本軍の短刀を軍刀づくりにした土産物。おもちゃだが、雰囲気はでている(写真)   落ちつかぬ心でたどり着いた最深部に骨董品の店が数件並んでいた。
  面白いナイフがある。左の店には木製の鞘と柄のシースナイフがひっそりと一本。右には陸軍の軍刀がどっさり。しかし、それに混ざって赤みがかった木の、中央から抜くタイプのシースナイフがある。これを手に取りそっと抜いてみるとやはり、どちら側にもブレードがついて、どちらもシースになっている。当然やや太めにできている。まるで両手に太鼓のばちでも持っているような具合だ。ブレードは細く短いストレート。シースはちゃちなようで、木目が綺麗だ。しかも、一本の棒を真ん中で切り、双方をくり抜いてタングを差し込み、その脇にシースを作る小業が憎い。これは、欲しい。
  左の店にあるシースナイフもこの国でよく見かける銀製のナイフと良く似ていて、ドロップポイントで、シースの先端が末広がりになっている。この木目が渋く、いかにも骨董品らしい。どちらも$10。天秤にかけて安くしてくれるほうを買おうという戦術を考えたが、両方欲しくなった。結局三者会談の末に二本で$12となり、両方の店が$6ずつ分け合った。アジア的和合である。 (写真)骨董品らしき現地の短刀。紫檀のようなハンドルが美しい(写真)

(写真)このナイフは真ん中から二つに抜けて、その両方がナイフになっている。これは閉じたところ(写真)

 
(写真)上のナイフを抜いたところ。二つあるので太鼓のばちのように見える(写真)
(写真)訪ねた寺院の住職が帰ってきたので、一緒に写真をとった(写真)  馬車の旅は続く。

 フミョーの案内で素晴らしい僧院があるという村を訪ねた。僧院はボロだったが、黒檀のドアに彫り物がしてある。並んで写真を撮った。彫り物は皆が撫でまわすせいか細かいところはツルツルになっている。
 ここの管理人をしている親父が出てきて中を案内してくれると言う。やたらと英語が達者なのでもしやと思ったら、やはり途中で土産物屋に化けた。それでも売上はここの坊さん達の生活費になるらしいので、気持ち良く漆の絵を買った。
 帰りがけにはひょっこりと現れた住職とツーショットを決めた。
  寺のそばにあったフミョーお勧めの土産物屋でも一本仕入れた。帰り際、店の前で、ひとの良さそうなおばさんが通りがかりに私にお辞儀をする。どうしたことかと思ったら、それはフミョーの奥さんだった。
 彼はこの村の住人なのだ。結局、フミョーのお勧めの僧院で寄進し、お勧めの店でデスクナイフを買い込み、お勧めの食堂で飯を食い・・という案配で、彼の、隣近所に対する貢献に全面的に協力させられた恰好だ。しかし、確かに良い村であった。別れ際に、今度来るときは、小学生の娘に日本製の時計を買ってきてくれないかと頼まれた。そうしてやりたいと思うのだが、あまり親切にするればいつもの結末が目に見える。
(写真)デスクナイフにしたきれいな銀製のナイフ(写真)

「あんたに礼をしたい。このルビーを安く売るよ・・」
1995年12月