初めてインドネシアを訪れたのは10月、二度目は12月だった。どちらも雨期で、夕方にはたいてい大雨が降る。ある晴れた休日にホテルから散策に出かけた。車の多さと空気の汚さに閉口した。30分も大通りを歩くと喉が痛くなる。 どんな国でも大通りはほとんど同じ顔つきをしている。そして裏道に入ったとたん、その国の素顔が見えてくるものだ。60階建てのビルの裏の路地では放し飼いの鶏が餌をついばんでいる。イスラムの国らしく、時折チャダー(チャドル)の女性が通りかかる。コーランを読む声が都会の喧噪に彩りを添える。それが私の見たインドネシアだ。 ![]() 高いビルの窓からは四方八方地平線が見える。海辺に近いジャカルタは高層ビルを例外として平たい。雨期にはいつもグラデーションのかかった黒い雲が、昼過ぎには雨を降らそうと地平線に待ち受ける。対称的にバンドンは山に囲まれて、オランダ領であった頃の名残を色濃くとどめる地方都市。ただしここにもアメリカ風の文化は浸透しつつある。道路の整備状況に比べて車の数が多く、決して静かとはいえなくなっている。 ヨーロッパ人によく言われることがある。 「日本もヨーロッパ化されましたね」と。 これは厳密に言えば正しくないと思う。特に戦後の日本文化は「ヨーロッパ化」ではなく、「米国化」の歴史と言いきって良いだろう。その点に関してはヨーロッパも同様だ。世界中至る所で米国化が進展しているように私には思える。米国化自体の善し悪しはともかくも、そのせいでどこの国も同じ顔と価値観を持ちつつあるように見えて、私は少し寂しい。ましてやそうなるために努力するありさまは悲しくさえある。 インドネシアの刃物は一般に肉厚・幅広で、重たいものが多い。ほとんど蛮刀に近い。もちろん、大きいものは蛮刀そのものだ。大きめの刃物の形は中国の青竜刀のよう。その傍らに日本刀そっくりのものもある。この類の刃物を「カタナ」とよぶ地方がこの国のどこかにあるらしい。近年になってそうなったわけではなさそうだ。おそらくは、室町時代から江戸時代初期の交易の名残なのではないだろうか。インドネシア語の音韻は日本語とよく似ていて、子音の衝突が少ない。「カタナ」という音のつながりも、インドネシア語として無理がない。日本語の「カタナ」がそのまま受け入れられたとしても不思議はない。 |
(この三枚の写真はとあるペーパーナイフのものです。一つの鞘に二本を別々に納める穴が掘ってあり、しかも外からは一本だけのように見えるのがおもしろいので買ってきました。実用上ペーパーナイフが二本必要となることはないでしょうが、おもしろけりゃいいか、というわけです。しかし、刃の模様をじっと見ていると刃文のようなものが見えます。刃の形にも若干の反りがあります) | ||
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ところで、インドネシア語というのはこの国の標準語ではあっても、個々の住民の母語である場合は少ないかもしれない。ややこしい表現になってしまったが、つまりはこういうことだ。 それはともかく、かつては日本語であったろう「カタナ」という言葉が、現在はインドネシア語なのかジャワ語なのか、はたまたナンダカ語なのか、私には見当も付かない。いずれにせよこの刃物、対人用の武器であることは間違いない。うかつに土産にすると日本の税関でもめることになるのでご用心。 |
ナイフと呼べるサイズの中で、まず目を引いたのがエッチングをほどこしたダマスカス鋼もどきの重たい一本。一目見てアラビア文字が浮き出ているように見えたのだが、どうやらそれはジャワ文字らしい。こういうのは一般に宗教と関係しているはずで、ジャワ語で書いてあるとなると、イスラム教よりむしろ土着の宗教か、ヒンズー教と関わりのあるものかもしれない。
このナイフの柄は樫の木か、水牛の黒い角が多い。鞘は基本的に木製で、金具で所々装飾、補強されている。椰子の実や動物、大型の魚をさばくには適しているようで、やたらと重たい。
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エッチングなしでミラー仕上げになっているものもある。このタイプの幅の広いものはまるで中華料理の包丁のようだ。確かにそのためにつくられているらしく、包丁としての実用性は高そうだが、他のナイフと同様にちゃんと鞘に収まっている。 |
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今回はバンドンのホテルの中庭で、現地の顧客と一緒に噂のドリアンを食する僥倖を得た。実はこれが生まれて初めてのドリアン試食であった。 ジャカルタからバンドンに移動する峠で露天の八百屋から三つまとめて買ったものだ。紐で結んで運ぶときにうっかり手の甲に当てて怪我をした。持っているだけでも危険な果物。ホテルではその臭いのせいで危険物扱いされ、中には持ち込めない。しかたなくラゲッジルームで保管してもらううちに熟れた一つが爆発した。残る二つをさっさと食べようとしたのだが、どうやって切るのか見当もつかない。椰子のように鉈もどきの包丁で叩き切ろうとしていた。切ってくれたのは大学の講師だったが、さすがは現地の人だ。見事に鉈ナイフで中を傷つけずに捌いてくれた。 |
残念なことにあまりおいしいドリアンではなかった。甘みがなく、出来損ないのヨーグルトのようであった。しかし現地の人とこのようにナイフを使った交流ができたのはうれしいことであった。ドリアンはこ の後本当においしいものを食べることができた。これまたうれしいことである。 |
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この国には他にもユニークな形のナイフがある。クリスとよばれ、小刻みに蛇行する川のような、波をうったブレードを持つナイフだ。様々なサイズのものを見かけたが、ほとんどがペーパーナイフであり、ちゃんと刃の付いたものは珍しかった。昔は刃物としても機能したらしく、どうやらそれは対人用の武器であったらしい。 伝統的な結婚式をたまたま見かけたところ、男は子どもから老人まで必ずこれをベルトの背中にさしていた。やはり現代ではただの祭器なのだろうと思われる。 |
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他にもハンドルに国鳥(?)のガルーダをあしらったものとかもあるのだが、いかにも観光客向けといった感じで興味はそそられなかった(が、一本買ってしまった。ブレードの模様が気に入ったのだ)。 |
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当時インドネシアの幾つかの島や海では激しい戦いが行われたようだが、場所によっては平穏そのものだったという。O氏のお父さんも多くの戦闘に参加していたわけではない。もとより諜報部員が直接の戦闘に関わることは珍しかったのだろう。そして彼にとってはあっけなく戦争が終わった。現地の女性を妻とし、子どもまでもうけたO氏の父親には日本へ逃げ帰るという選択肢はなかったのかもしれない。ある日、彼は妻にこう言った。 「俺の国は欧米人からおまえたちの国を開放するという口実でこの国にやってきた。どれほどの日本人が本気でそう考えていたかは知らないが、約束は約束だ。俺は必ずそれをまもる。俺の本当の戦いはこれから始まる」 彼はインドネシア人とともにオランダ軍と戦い、数年後ついにその約束を果たした。日本軍が敗れてから半世紀もたった1996年春、彼はジャカルタ市の中央にある英雄墓地に眠る人となった。奇しくもその直後に日本政府から勲章が授与されることになり、O氏はそれを墓前に報告した。 「父親が生きていたら、勲章を喜んだでしょうか・・」と、O氏は遠くを見た。視線の先にはスコールを運んでくる、黒い雲に押しつぶされた地平線があった。雨はまもなく降り出すだろう。 1996年 12月
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