日本ナイフ紀行 


 
新潟



旅 情



国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国ではなく、梅雨空に押しつぶされそうな、谷間の温泉街だった。
もちろん今どき芸者の駒子などおらず、東京から乗り合わせたおばさんたちの嬌声のみが車内に響く新幹線の中で、私は辟易していた。

本当に長いトンネルだった。いったいどれくらいあるのだろうか? 新幹線に乗っていてさえ心配するほどの時間がかかったのだから、昭和初期の汽車ではなおさらだろう。このまま地底の国に迷い込むのでは? などと、SF愛好家の想像力をくすぐる話にでもなりそう。

それにつけても、おばさんたちの声がやかましかった。駒子がいない、というだけで感傷的になっている私の詩情を吹き飛ばし、現実の喧噪に引き戻してくれる。おばさんたちは文学者の永遠の敵である。

列車はその後、またいくつもの長いトンネルを抜け、越後平野を縦走し、今回の旅の最初の目的地である新潟へと近づきつつあった。



<写真>新幹線の窓から新潟平野の水田地帯を撮す<写真>

朝の新幹線はがらがらで、
先頭車両の二階、最前列の窓側に座れた。
新潟平野の水田地帯が美しい



新潟にて


ただの一泊旅行なので重い荷物もなく、新潟駅を降りた私は万代橋方面へ徒歩で進み、目的地にたどり着いた。

万代橋をわたりながら、信濃川を眺めてみる。8年前にみたときとなにも変わらない。あのときは空港へ向かう途中で寄居浜に行き、坂口安吾の石碑を前に記念写真など撮ったのだった。その海岸は今や、某国の船の出入りに神経をとがらせる人たちでにぎわっている。

久しぶりの町並みには、思いのほか活気があるように思えた。


<写真>万代橋からの信濃川の眺め 空は曇っている<写真>

万代橋の上から信濃川を眺める
右にたっている高い建物は初めてみる気がする

新潟県の産業といえば、米と酒、そして燕三条の食器を思いつく。
こちらへ来て某官庁の職員に教えられたことだが、ノーベル賞の授賞式の後で行われる晩餐会では、燕三条の食卓セットが使われているとか。
日本ではどうしても海外製品がもてはやされるが、日本の食器もまた、海外では高く評価されている。
世界ナイフ紀行のエジプト編では書きそびれたが、カイロでエジプト風のナイフを探して町の刃物屋をたずねたとき、店主が自慢げに私に見せたのも、まさしく燕三条の高級ナイフとフォークのセットであった。

私の友人であるDさんもまた、新潟でそちら方面の仕事に就いていたのだが、数年前に会社が倒産して失業。もちろんDさんは持ち前のバイタリティで新しい職を得た。しかしながら中国製の安い食器が日本のみならず世界中に氾濫し、今や多くの地場の企業が存亡の危機にに直面しているのが現状だ。




新潟美食紀行


新潟駅の周りにはそれなりの繁華街もあるけれど、やはり本当の新潟は古町(ふるまち)だと地元の人は言う。たしかに町並みがまるで違う。しかしDさんに連れられて行ったのはまず、新潟駅から歩いていける場所にある、地元の肴と酒のうまい、割烹・M。
ここで食べたムツ(ノドグロという種類らしい)の塩焼きが絶品だった。もちろん刺身の盛り合わせもうまい。地酒はまず、ずしりとくる味の「〆張鶴」、それよりはずっと軽い「麒麟山」、そして・・・なんだか忘れるほどたくさん飲んだ。しかし酔わない。うまい。とにかくうまくて感激した。
忘れてはいけないのが枝豆。新潟県内にはこの枝豆を巡って二つの地域がしのぎを削っているという。私が食べたものはそのうちの一つだけだが、「なるほど」とうならせる一品。こうなると、どうしても両者を食べ比べてみたいものだ。

雨の中、タクシーで移動した古町のバーでは新潟美人が三人もいて・・・いや、ここは割愛しよう。ただDさんがもてもてだったことを記すにとどめることにする。
このDさんという人、その昔はそうとうなワルだったと、とあるところで耳にしたが、今やその面影はなく、仏語で言うところの 「bon vivant」そのもの。私もいずれはDさんのようになりたいものだと思うのだった。

三軒目はかねてよりの希望であったへぎ蕎麦の店。
へぎ蕎麦とは、そば粉を海草(布海苔)でつないだ、独特の歯ごたえのある蕎麦で、表面は光沢があり、つるつるとしている。
そしてなぜか、天麩羅と一緒というのが定番だとか。このへぎ蕎麦もさることながら、天麩羅のおいしいのに驚いた。今まで食べた中で最高の天麩羅だったかと思う。

私は幸せだった。


という次第で、Dさんにはすばらしいお店ばかり紹介していただいた。次回は私の地元、川崎のコリア・タウンで本場の焼き肉でこのお返しをしたく思います。

しかし、うまい酒がない・・・。「多摩○×」などという腰抜け酒では、「〆張り鶴」の足元にも及ばない。悲しいなぁ。



へぎ蕎麦を前に一杯飲んでいる地元の紳士

<写真>Dさんが、へぎ蕎麦を前に地酒を一杯飲んでいる<写真>

<写真>へぎ蕎麦のアップ。一口ごとに巻かれていて食べやすい<写真>

へぎというのは、
蕎麦の入れ物のことらしい



燕三条ナイフ紀行


深夜まであれほど飲んだにもかかわらず、翌朝すっきりと目覚めた私は、第二の目的地である燕三条へと向かった。
新幹線ではなく、ローカル線を選んだのは、全くの気まぐれから。信越線、弥彦線と乗り継いだおかげで、待ち時間も入れると2時間ほどもかかったが、見知らぬ土地の景色をのんびりと眺めながらの旅は、心地よいものだった。時間を贅沢に使えるのはなによりも気分のよいものだ。

刃物好きが集まると燕三条の名は頻繁にでるが、私は燕と三条が別々の町であることを、ここに来て初めて知った。



新幹線の駅がこの二つの中間にあり、駅名が「燕三条」となっているために、私は誤解していたのだろう。一つ勉強になった。しかし、政府の音頭取りにより市町村の合併・統合が進められている状況からして、この両市が現実に合併するのはありそうなことだ。


それにつけても、駅の周りにはたくさんの車が止まっているのに、人通りがほとんどないのはどういう訳なのだろう?
<写真>燕三条駅はなかなか外観も立派です<写真>

燕三条駅は乗降客の数の割に広々としていた。駅の中にはすでに地場産品の展示場があり、その外にも立派な施設がそびえ立っている。その名も「地場産センター」。産業振興のためのイベントをおこなうこともあるらしい。展示即売場にはもちろん刃物もたくさんあるが、銅製の調理器具が目を引く。あれもこれも欲しいと思いつつ、今回は刃物に的を絞ることにした。

<写真>地場産センターの展示場入り口「燕の自慢と三条の自慢」と書かれている<写真>

地場産センターの入り口


まずはマキリを一本選んだ。木の鞘に入った、半分は黒焼きのままになっているもの。銘は「忠房」。鞘はゆるゆるなので、怖くて使えない。持ち運びにはサラシに巻かねばならないだろう。

<写真>マキリを白鞘に納めたところ。ドスのように見える<写真>


<写真>マキリを抜いたところ。刃渡りは14cmほど<写真>
<写真>収穫用包丁は、薄刃です<写真>
さらにもう一本、知人への土産として家庭菜園での収穫用包丁というのを選んでみた。ずいぶんと薄いけれど、どうしてこれが収穫用によいのか、その人に使ってもらってから聞いてみよう。


もちろん館内にはきわめて高価な「本焼」とよばれる、プロ用の包丁も数多くあった。こういうのも一本くらいは欲しいけれど、柳刃を買えば、次は出刃も、じゃ、あれも、それじゃあこれも・・となるのは目に見えているので、最初の一本が命取りになる。
ここはぐっとこらえることにした。

<写真>たくさん並んだ本焼き包丁。一本10万円以上する物もある<写真>


館内には多種の包丁が並んでいる。今まで持っていなかった形のものを物色してみた。そこで今回はイカ裂きとなった。マキリがあれば用は足りるが、やはり形状からしてこれがイカを調理するためには一番良さそう。「吉兼久」の一本。
決して高級品というわけではないが、和包丁というのは、ちゃんと研ぎさえすれば素人には普及品で十分なのだから。


<写真>イカ裂き包丁を箱から出したところ。大きさはマキリと同じくらい<写真> <写真>手に持ったところ。吉兼久の銘が見える<写真>


エピローグ


これほどの刃物を未だに作れる燕三条が、この先も衰微の一途をたどるとは、私には思えない。中国や東南アジアの新興工業国の廉価品に圧されようとも、決して高級品に特化すべきだとも思わない。高級品であれ、普及品であれ、作られたものは必ず作り手の魂を運ぶ。マキリしかり、本焼包丁しかり。

あけない夜はない。長いトンネルもいずれは終わる。
それはどれほど長くても、抜けてみればそこには今も、駒子が待っているかもしれない。

2003年7月