世界ナイフ紀行・東南アジアシリーズ 
 
ベトナム
ホーチミン編
ホーチミンのアーミーナイフ


  ここのところ東南アジアの旅が多い。元々寒いところの方が体に合うはずなのだが、何度か来るうちに暑いのも平気になってきた。ここらへんはただ暑いだけではない。とにかく湿気が多い。6月のベトナム、ホーチミンは日本と同様に梅雨の季節で、いやが上にも蒸し暑い。ノートパソコンが熱を持ってワープロを打つのも楽じゃない。さいわいなことにホーチミンでは滅多なことでは停電せず、立派なホテルの部屋にこもっているかぎりは、ききすぎる冷房にさえ注意すればよいのだが。

  東南アジアはどこも戦争の傷跡がくっきりとしている。特にベトナムはつい最近までいろいろな国とやりあっていた国なので、見かけるナイフにもその影響が現れる。もちろん、とりたててナイフで戦っていたというわけでもないだろう。有名になったランボーナイフだって映画のなかでは脇役だったし、どこかウソ臭い。アーミーナイフと呼ばれるものは誰しも知るように、兵隊たちが日常、缶詰をあけたりロープを切ったり、簡単な料理や食事をしたり・・という使用を第一に考えられている。私がベトナムで見つけたナイフの多くはそれだった。ベトナム民族に固有のナイフ、刃物ももちろんあるのだろうが、ここしばらくこの国の置かれていた状況を考えると、軽作業用のアーミーナイフもまた"ベトナムのナイフ"と言えるのではないだろうか。

 
(写真)商売熱心なおばさんの店先にナイフがたくさんならんでいる(写真)

  ホーチミンのガラクタ屋にはアメリカ軍が落としていったらしい1960年代のポケットナイフがゴロゴロしている。同じくZIPPOのライターもマニアだったら泣いて喜びそうなほどの種類と量…ただしボロ…だ。軍用船や飛行機に取り付けられていた時計、コンパスのたぐいから赤外線暗視装置まである。日本の露天でもおなじみの銃弾ペンダントはベトナムで見るとひと味違う。こりゃあたりまえか。
  すべてにつけアメリカ製が多いが、それ以前の独立戦争当時のフランスもの、米軍が引き揚げていったあとの中国軍やソ連軍の正式装備品が町中いたる所で売られている。時計もコンパスも見事に稼働している。使用条件を考えれば耐久性があるのは当然としても、いまどきのデジタル時計が30年たったときのことを思い浮かべて考え込んでしまった。
  技術革新の速さと、商品を安価に生産できる設備が、モノに対する我々の姿勢を変えてしまうのだろう。時計に30年の寿命を与える意味がなくなったのだ。
  刃物の世界も例外ではない。床屋でも外科手術でも、刃物は使い捨てになった。いまどき研いだりしない。そして研ぐ技術がすたれ、砥石もなくなる。いずれはウナギや寿司ネタを切るのにも、使い捨ての替え刃が使われるのだろうか。

ここまで考えて、砥石を買いだめする気になった。


(写真)カサノヴァのマークが入ったソムリエナイフ(写真)   
ナイフで特に多いのはカミラスのアーミーナイフだ。次がケースのポケットナイフか。当時のケースのナイフは今と違って鍛造だったらしく、それなりの価値があるようだ。
  ときおり古色蒼然としたフランスのナイフがある。残念ながらオピネルは見かけない。そのかわり妙なものを見つけた。Champagne de Casanoveのソムリエナイフ…といっても、そんなものは今まで見たこともなかった。たぶんその、カズノヴ(カサノヴァ)というシャンペンのおまけだったのだろう。この名前が気に入った。反対側には「シャトー○×△」と、ワインの蔵本らしき名前が書いてある。ソムリエナイフといえば本当はライヨールのが欲しかったのだが、高くてなかなか買う気にならない。とりあえずこれで妥協することにした。
 
 

 

(写真)BIATのナイフ。プラスチックの北ベトナム軍ヘルメットと一緒に写っている(写真)



  同じ店で二本見つけたBIATのアーミーナイフはちゃんとしたメーカーのものであることは間違いなさそうだ。ただし、このBIATというメーカーも私は知らない。今でも日本で売っている、同じフランスのモンジャンというナイフと、ゴロンとした質感が共通している。ブレードのロック機構が初めて見るタイプだ。
  フランスのナイフメーカーというのは、どこもその会社独自のスタイルにこだわるようで、このレバー式ロックもおそらくはBIAT独自のものだろう。それでもふっくらとした全体の雰囲気はモンジャンに似ているのだ。そちらもユニークなロック機構で有名だが、それ以外で大きな違いはハンドルの材質だ。モンジャンがハニーホーンにこだわるのに、このBIATはオールメタル。しかも大きいので、とにかく重たい。間違ってもポケットに入れて持ち歩くタイプではない。兵隊がしょっているリュックにでも入れておいたのだろう。たたみ込まれているユーティリティは大小のブレード、缶切り兼用の栓抜き、鋸、コークスクリュー、千枚通し。メインブレードの幅はかなり広い。これまたモンジャンとよく似ている。
(写真)BIATのナイフを折り畳んだところ(写真)
(写真)シェフィールドかと思った日本製十徳ナイフ。綺麗である(写真)   目を引いた最後の一本はシェフィールド風のポケットナイフ。こちらもオールメタルだが小さいのでそのぶんだけ軽い。小さな体にブレード、二股フォーク(だと思う)、缶切り兼用栓抜き、ハサミ、千枚通し等々が詰め込まれ、精度も悪くない。どうしてもどこの国の製品かわからなかったが、雰囲気はイギリス風と思った。以前からシェフィールドのナイフが一本欲しいと思っていたので、前記のフランスもの二本と一緒にまとめ買いした。
  ところがホテルの部屋に帰ってよく見ると、小さくJAPANと彫られているのを見つけた。何の因果か私のスーツケースに入れられて里帰りを果たすナイフに、おめでとうを言いたい。それにしてもいったい、誰がどうしてこれをベトナムに持ち込んだのだろう。

(写真)十徳ナイフのツールを全て開いたところ。ハサミ、ナイフ、錐、フォークなど(写真)

 
 
ホーチミンの血煙?
 
  一日暇を見て昼間から町へ出かけた。すぐさまポン引きが声をかけてくる。方向感覚が貧しい私はそのうちの一人にガイドをさせることにした。男の名前はタムとかいう。
  今度こそ民芸品のナイフも漁ってみようかと骨董屋街へ案内させ、20件ほども回った。ポケットからオピネルNo.8を取り出し、これくらいの大きさのが欲しいのだと言えども、どこも刃渡り50cmはあろうかというベトナム刀しかおいていない。しかたなく北ベトナム軍のヘルメットとか陶器の人形とかを買い込んで、タムと一緒にしばらく遊び回った。値切りの交渉は全て彼に任せ、えらく役にたつ男だと感心したのであった。
(写真)ホーチミンの町中におひねるが立っている。回りには本だのバイクがたくさん(写真)
ホーチミンの大通りのロータリーに、シクロとホンダのバイクが走る(写真)

  ベトナムのポン引きは一般にシクロとよばれる自転車タクシーの運転手を兼ねている。ミャンマーでは自転車のサイドカーに乗るが、インドネシアとかベトナムではフロントカーだ。つまり座席は自転車の前についていて、漕ぎ手は後ろからそれを押すかのように運転する。
  インドネシアでは四輪の自動車が多くて人力自転車で町を走るとスリル満点だが、ベトナムはバイクとシクロが交通量の大勢をしめるので、さほど怖くない。

  途中で銀行によって100ドルほど両替したのがタムの心をそそったのだろうか。帰り道に寂しげな通りにつれていかれ、別のシクロを呼び止め、「道がよくわからないので、この男にホテルまでおくっていってもらえ」とそちらに私を乗せかえ、「一時間10ドル、4時間だから40ドルのところを、特別サービスで30ドル」とふっかけてきた。


  相場はガイド料も含めると5ドルくらいだろうと思った。土産物の値切り交渉でずいぶんと節約をさせてくれているので5ドルが10ドルでもやむなしと思っていたのだが、30ドルとはびっくりである。(あとで現地の識者に聞いたところ、4時間のガイド料込みならば最低でも10ドルは払わねばならないだろうとのことだった。しかし私はそのような相場を知らなかった)

  言葉があやふやなこともあり、要求された金額が最初は何の料金かよくわからなかった。要するに雲助タクシーだと気がついたときにはもう一人通りかかりの運転手が加わり、30ドル払えと脅しにかかっていた。座ったシクロから降りようとする私の肩を押さえつけ、二人でフロントカーの縁を叩いて「さっさと払え!」の合唱である。

  このてあいをのさばらせれば犠牲者は増え続ける。私は一戦まじえる覚悟を決めた。前の二人はちょろそうだ。しかし、私が座ったシクロの運転手が後ろにいる。その男が二人に加勢すれば戦況は著しく不利になるだろう。様子をうかがいに振り向いてみると、困った顔でおろおろしている。そこで、「ホテルまで連れていってくれたらおまえには2ドルやろう」と言ってみた。

  この程度の用事で2ドルも払えば恩の字だろう。第三の男はうれしそうにほほえんだ。これで決まりだ。あとは奇襲あるのみ。

  フランスにいたころ広東料理のシェフからカンフーを習っていた私は、飛燕の前蹴りに自信がある。二人の男のアゴはシクロに座ったまま一度に蹴り上げるのにおあつらえ向きの位置にあった。蹴りやすいように深く座り直し、二人の注意を上方に引きつけるため右手を首筋にゆっくりと持っていった。タムは一緒にナイフ屋を巡るうちに、私が常時数本のナイフを身につけていることを知ったはずだ。そのうちの一本でも背中から取りだそうとしているかのように見えるだろう。もちろんそんなところには隠していないが、その手を押さえに来たときがカウンターのチャンスだ。いかなる格闘技の達人も動作の始まりと終わりにはデス・ポイントが生ずる。ましてや相手はこけおどししかできぬポン引きだ。勝負はあった。

 
  しかし、あてははずれ、タムはあとずさった。第二の男も殺気を感じたのか同様に数歩後ろに下がった。私は首筋に持っていった手をどうしたらよいものか考えあぐね、とりあえずシクロから飛び降りた。後ろの運転手も完全に信用しきれるものではないからだ。右手はそのまま首筋を掻いた。他にやり場がなかった。そして第二の男が私に聞いた。

「いったい、いくらだったら払うんだ?」

「3ドルだ!」と、いきなり10分の一に値切った。
  男はせめて10ドルくらいを要求し直してくるかと思ったがここでも予想ははずれ、「おい、3ドルで我慢しろよ」とでもタムに言ったようだ。タムもぶつぶつ言いながら「しかたない」といった顔で頷きながら、さらに数歩あとずさる。第二の男は「この男に3ドルやって、ホテルへ帰ってくれ」と横を向いたまま私に言う。
  タムはといえば、3ドルを払おうにも、すでに受け取れる距離にいない。そこで第二の男にドルではなく現地通貨で2ドル半ほど手渡した。これでまた騒ぎ出すかと思いきや、二人とも一言もない。二人は瞬く間にいなくなり、私は第三の男とホテルへと向かった。

(写真)市場の肉屋さんに、生きたままのガチョウや鶏が売られている(写真)

 途中でその男が後ろからはなしかける。

「あのシクロは良くない。一時間で10ドルは高すぎるよ。4時間で30ドルなんて大変な金額だ。ああいう奴には気をつけてください」

  
  最初に値段の交渉をしなかった私が迂闊なのだ。仮にそれをしていてもトラブルは防ぎきれない。流しのタクシー、ことにポン引き兼業のシクロには間違っても乗ってはいけないのだ。タクシーは必ずホテル指定のものを使わなくてはならないという基本を忘れていた自分が悪い。私のように中途半端に旅慣れてきた人間が一番危ないのだろう。
  とにかく後味が悪かった。ホテルまでの道すがら、顔つき・目つきが異常なほどに悪くなっている自分に気がついた。これではイカンと懸命に凶相を修正しているうちにシクロが音もなく止まった。気がつくと10メートルほど先にホテルの玄関が見える。
 降りながら財布をとりだし、運転手に約束通り2ドル相当を現地通貨で手渡した。男はうれしそうにしながらも、「もう少しくれないかな?」と、はにかみながらも図に乗って聞いてくる。私は「なんだって…」と、またも顔つきがけわしくなりそうなのをこらえた。

「OK」

  そう言ったとたんに無理な作り笑いが自分の顔から消えるのがわかり、不思議とホッとした気分になった。色を付けて手渡したぼろぼろの札を受け取った男は、深々とお辞儀をして去った。

 
(写真)メコン川の河口近くで、母親を乗せた小舟を子供が漕いでいる(写真)

1997年 6月