世界ナイフ紀行 

フランスーエジプト
 
 
その一
オペラ座の夜

ロワッシー(シャルル・ド・ゴール)の空港から40分ほど、バスはあっけなくオペラ座の横に着いた。
 10年ぶりのパリだった。

 たしかに私はフランスに四年間すんで、この国の言葉の読み書きも、話すことも(どうにか)できる。しかし、私にとってのフランスとはパリではなく、ボルドーだ。パリは他の外国の都市と変わらない。
 ただ、それだけにおもしろいこともある。パリだけでなくロンドンなども、街中を歩いていて本当に楽しいと思う。しかし今回は重い荷物と一緒だった。つらかった。
 ジャン・マリーからの email では、目的のホテルは歩いて5分ほどのはず。しかしそれはよく道を知っていればのこと。私は生粋のボルドー人。生まれてこのかた、パリで過ごしたのはほんの数日でしかない。オペラ座近辺など、なにも知らない。地図も持たない私は、たどり着くまでにゆうに30分をかけただろう。

 ホテルまでの道すがら、携帯電話で話している人を見かけることが多かった。フランス人の大部分が携帯電話を使うなど、昔日を知る者としては想像だにできなかった。彼らこそは、G7諸国で最後の携帯族になるであろう、と私は思いこんでいたのに…。ま、たしかに最後ではあったのかもしれない。それにつけても多いことよ。
<写真>オペラ座前にあるバス停で、バスに乗ろうとする早朝<写真>
オペラ座前のロワッシーバス
 三星のホテルに着くとフロントでかわいいパリジェンヌと日本人のおばさんが、双方ともたどたどしい英語でなにか話している。
 おばさんの連れの腕だか脚だかにとげが刺さり、傷が化膿しはじめているので、せめて消毒液くらいないか?という相談だった。

 そのマドモワゼルの話では、ホテルに常備薬はなく、夜の7時過ぎではすでに薬屋も閉まっているとのこと。二人とも途方に暮れている。私はここで彼女たちの窮地を救うべく、久しぶりのおフランス語で(日本人のおばさんはともかく、マドモワゼルのために)一役買いたかった。

「消毒だけなら強い酒で十分でしょう」
「はー、なるほど。そういう手があったわね。ジンが冷蔵庫に入っていたわ。それにしましょう、ありがとうね」と、おばさんは元気を取り戻し、エレベーターに去る。

 邪魔者(失礼)もいなくなり、早速私はかわいいパリジェンヌと世間話でも…と思いきや、
「実は当ホテル、技術上の問題からお泊めできるお部屋がもうないのです。予約いただいていたのにもうしわけありません。しかし、筋向かいのホテルの一室を融通してもらいました。そちらへお願いします。同じ三星で、宿代も同じですから」
「はぁ、そうですか、マドモワゼル。そりゃありがたいような、残念なような…」
「は・・・? ところで、ムッシュー、あなたをお待ちになってる方がいらっしゃいますよ」
「お、それはたぶん…」
 ジャン・マリーだった。
 すぐに彼だとわかる人物がカウンターの奥にあるロビーから出てきた。
 あらかじめ email 添付の写真をもらっていたので驚きもしなかった。
  ジャン・マリーという典型的フランス人のプレ・ノン(ファースト・ネーム)を持つが、情報工学科の学生である彼の苗字はホアン。中越混血の100%アジア人である。フランスではよくあること。

 荷物を一つ持ってくれた彼と二人で筋向かいのホテルに行く。ジャン・マリーは部屋まで荷物を持ってきてくれた、が、部屋に着いたとたん、電話のベルが鳴る。今度はジャン・ビュアレの到着だった。彼ともパリで落ち合うことを約束していた。

ジャン・マリー・ホアン
<写真>ジャン・マリー<写真>
なかなかの美男子である
<写真>ジャン・ビュアレにもらった4本のオピネル<写真>
ジャン・ビュアレにもらった4本のオピネル

 かくして三人が揃い、「ピネラー・オフ、オペラ座の夜」の幕は切って落とされた…、というほどのこともなく、我々は近所のブラッスリーに入り、シトロンを一切れ入れたビールをグラスでもらう。
 すでに自己紹介はホテルのロビーで軽くすんでいた。

 ジャン・マリーはピネラーというよりもポケットナイフの蒐集家。私にカネコマの肥後守を二種類買って送って欲しい、とメールで頼んできたのが1ヶ月ほど前。
 先日の札幌ピネラー・オフのおりに、狸小路で買い求めた普通のサイズと、ミニチュアの二本をここで手渡し、ご希望に添うことができた。

 彼がこの和式ナイフを知ったのは、日本のアニメ映画の中だという。ネットの検索でそれをもう一度見つけ、なおかつ「ヒゴノカミ」という名を知ったのが、Chateau Micmac の仏語版であったとのこと。

 彼が見たアニメ映画とは「蛍の墓」。

 幾度かのメールのやりとりで、この映画がフランスでも(上映館が少ない割には)大好評であったことを私も知った。彼は繰り返しこれを見て、そのたびに泣いてしまったという。同様の経験がある私も彼とすっかり意気投合し、このたびのオフとなった。それにしても、あの映画に肥後守がでてきましたっけ?

<写真>ジャン・ビュアレとカフェで<写真>
ジャン・ビュアレ

 ジャン・ビュアレもまたコンピュータが飯の種だとかおっしゃる人。以前メールでは、「ここしばらく仕事がうまくいかない・・」とぼやいていたが、今はすっかり元気を取り戻しているようだ。

 すでに知り合って2年もたつ彼は、私のChateau Micmac で「ジャン・ビュアレによる柄の研究」という1ページを持つ人物。いわばここの共同執筆者でもある。
 はじめてみる彼は、学生のジャン・マリーとは対照的に髪が薄くなりかけた中年ピネラー(私も髪こそ薄くないが、中年です)。そして、なんと4本も珍しいオピネルを私のために持ってきてくれたのだ。さらにその上、幻のオピネルといわれる「オピロワ(オピネルの王様)」をはじめ、珍しいオピネルの数々を鞄から取り出し、カフェのテーブルの上一杯に見せびらかしてくれた。
 こうなると黙っていられないのがフランス魂。カフェの中にいたオヤジ達が席を立ち、
「オー、サクレ・コレクシオン…(オー、聖なるコレクションか…)」と我々の回りに群る。
 しかし、しきりに感心するオヤジ達の中に、とびきりのフランス魂を持ったひねくれオヤジも混ざっていた。

「俺はライヨールにしか興味ないね・・」

 あっちへ行けよ。おまえに興味はない。
10本入り木箱には、珍しいオピネルの数々が・・・
<写真>ジャン・ビュアレが持ってきて、見せびらかした珍しいオピネル<写真>
さらにこのあと、鞄から数十本が出てくる。



 二人ともフランス人の常として、ハヒフヘホを発音しない。当然私は「オイネル」とよばれる。これは十分予測していた。私はその呼称に多少の違和感を抱きながらも、三人のオピネル談義はつきることを知らない…しかし、瞬く間に2時間以上が過ぎた。郊外に住むジャン・マリーが
「お、もう10時だ。まずい、家に帰れなくなる…」と、あわてだし、オペラ座の夜は惜しまれながらも幕切れとなった。三人は再会を誓い、ブラッスリーの前で分かれた。

 会えて楽しかったよ。また近いうちに、友よ。

その二

ラクダに乗るのはラクではない
(カイロ)


滞在したホテルの部屋の窓からナイル川を眺める。
排気ガスによる大気汚染は聞きしにまさる。
<写真>ホテルの窓からナイル川河口を写す<写真>

 翌日、昼過ぎにパリを出た私は、カイロに夜着いた。昨夜のパリは、夜の10時でも薄暗いほどであったが、カイロは8時ですでに似たような明るさ・暗さとなっている。経度の差が歴然と現れる。

 さらにその翌日、100年ほど前の革命的な出来事を記念したとかいう国民の祝日、仕事のしようもない私は、これ幸いとばかりにピラミッド見物に出かけた。

 ギザはカイロ市内のホテルから車でわずか30分ほど。乾ききった砂ばかりの丘で、ラクダの背にまたがった私の前に、大小さまざまなピラミッドと、スフィンクスが横たわっていた。

 猫科の動物が好きな私は、どちらかといえばスフィンクスに興味があったのだが、こちらは予想外に小さいもので、いささか拍子抜けした。顔も半分は崩れ落ち、我が家の猫なみの愛嬌である。とはいえ、感激した。本当にこれが、5000年も前に作られたものなのか…。

<写真>スフィンクスがピラミッドと一緒に<写真>
ピラミッドの手前で見張りをしているスフィンクス、という風情だが、
実際はこちらの方が数百年も先にできていたらしい。


 このスフィンクスは、ギリシャの歴史家・ヘロドトスがこの地を訪れ、私同様ピラミッド見物をしたたときには、およそ1000年来砂に埋もれていて、その存在さえ気づくことはなかったという。んんんーロマンだなぁ。

 ヘロドトスよ、私はあなたが知らなかったものを見たのだよ。まいったかね。

<写真>らくだに乗ったおひねるが、ピラミッドと並んで写っている<写真> <写真>石造りの小屋の前でらくだにまたがっているおひねる<写真> <写真>ピラミッドの遙か手前で、ラクダと一緒にカメラ目線のおひねる<写真>
 上の写真は私がラクダにまたがった勇姿であるが、実はガイドが面白がって時折ラクダを走らせたために、振り落とされまいと必死でしがみつき、
「ガオー、やめてくれー、とめてくれー・・・」 と大騒ぎすることが再三あった。
 今まで旅先では、なるべくクールでニヒルなビジネスマンを気取っていたつもりが、ここへ来てガタガタに崩れてしまった。とても悔しい。

 それにしても落ちたら大変なことになりそうなのだが、そういう配慮はないものか? それとも私が子供の頃、牛に乗って遊んでいたことを教えたために、大丈夫だろうと思ったのだろうか。

 この広い丘をぐるりと回るのにずいぶんと時間がかかったのだが、内股の筋肉痛が癒えるまでにも数日は必要だった。

 ところで半ば期待していた土産物屋は、ピラミッドの回りには意外なほど少ない。運転手に頼んだナイフ探しは、いかがわしげな裏通りにある、いかがわしげな日本語を操るオヤジの店ですることとなった。
<写真>真鍮製のペーパーナイフの鞘。エジプト女性の彫り物<写真> <写真>その裏側。植物の絵だろうか?<写真> <写真>エジプト製テーブルクロスの上に置いたペーパーナイフ<写真>

模様も形も、まぁ、それらしいです。
下に敷いてあるのは
現地で仕入れたテーブルクロス。

 そこにはナイフなどろくにない。もちろん、包丁などあるわけもない。見つけたのは真鍮製、象牙製のペーパーナイフばかり。一つだけうれしかったのは、奥の棚でほこりをかぶったラクダ革の鞄だった。

 帰国のおりに立ち寄るパリの空港で、私はこれに数十本の珍しいオピネルを詰め込むことになるはずだったのだが…。

 それはともかく、この鞄と一緒に、くだんのどうしようもない真鍮製のエジプトナイフも一本だけ、仕方なしに買ってみた。今回は特に時間の制約があり、まともなナイフは探せそうになかったのだ。

<写真>ツタンカーメンの胸像をガラスケース越しに撮った<写真>

ご存じツタンカーメン。発見が遅かったためか、珍しくエジプト本国に残った。
この国の美術品のめぼしいもののほとんどがヨーロッパの美術館にあるのは有名。
エジプト人が言ってました。「フランス人もイギリス人も、泥棒だ!」


 アラブ人、それにイランやインド人とのビジネスには大いに気力・体力を消耗するのが商社員の常識と言えるが、たしかに彼らは手強い。今回の短い滞在中に改めて実感した。
 しかし、彼らとつきあううちに、ただがめついだけではないことにも私は気がつきはじめている。

 少なくともエジプト人は、 "dignity" というものを大事にすることに関しては今時の日本人など、およびもつかぬ人種であろうことを思い知らされた。

 仕事上のエピソードばかりなので、ここで多くを語ることができないのが残念だが、おもちゃのナイフとまずい料理に辟易した私に、新しい視点を与えてくれたこの国の友人達に感謝したい。
<写真>カイロの市場で鴨を売っていた現地のお姉さん<写真>  市場で見かけたエジプト鴨と女性。
 鴨料理の好きな私は思わず鴨にカメラを向けたが、
 今思えば、やはり彼女の方をメインに撮るべきであった。
 エキゾチックな美貌である。
 エジプトは良いところだ・・・。

<写真>ホテルの裏にあった庶民の暮らす街角<写真>

ホテルは立派だったがすぐ裏は庶民の家ばかり
   <写真>白・黒の二頭の羊が街角で餌を食べていた<写真>

私は鴨だけでなく、羊料理も好きだ。
犬のように放し飼いになっていた白黒の羊。


その三

ド・ゴール空港の父子
  
 カイロでの最後の日、私は朝の4時に起きて、8時の飛行機に乗り、正午には再びシャルル・ド・ゴール空港に降り立った。
今回の目的ははるばるアルベールビルからやってくるはずのロジェと会い、極めつけに珍しいオピネル、その他を彼から入手すること。さらには前出のジャン・ビュアレと同様に古くからのオピネル友達であるパトリスと、初めての対面をすることであった。

 しかしながら、ロジェとは会えず、(あとでわかったことだが、彼は空港に来ていて、私を5時間も探し続けたとか・・)、パトリスとその息子・ニコラだけとの面会を果たした。結局ラクダ革の鞄には、下着とゴミが詰め込まれたままになった。人生は悲しい。

 パトリスはメールから受ける印象通り、物静かな、私と同年代のピネラーであり、同時に、オートバイ愛好家でもある。ニコラはオピネルよりもポケモンカードに夢中の、典型的フランス少年。この秋には小学校に入るという。

 かつてパトリスからのメールにあったとおり、この子はふだん、母親とだけ暮らしている。つまり、母親と父親はすでに離婚している。フランスでは(日本でも最近は)よくある話だ。
 夏のバカンスシーズンであるため、父親・パトリスも休暇を取り、こうやって父子二人はつかの間ながら一緒に過ごせるというわけだ。

 三人は空港内のスペイン風ハンバーガーのカフェで数時間もねばった。

<写真>空港の喫茶店でニコラとパトリス親子<写真>

「それじゃぁニコラ、今度来るときは、君に日本のポケモンカードを持ってきてやるよ」
「本当!? そりゃ、うれしいや」

 パトリスが付け加える。
「オイネルのところにはポケモンカードがたくさんあるんだよ」

「じゃぁ、あのカードを作っているのは、オイネルなのか?」
「いや、ちがうよ。ただ、日本にはたぶん、フランスよりもたくさんあると思う」
「オイネルはなにをしている人なの?」
「ふっふっふっ。実はね、俺はニンジャなんだ」
 また馬鹿なことを言ってしまった。クールでニヒルな男は直後に、またも後悔する羽目になる。
<写真>カフェでパトリスにニコラが話しかける<写真>
 映画のおかげで、フランスでもニンジャは有名になっている。柔道着や剣道の道具を売っている店にはしばしばニンジャの七つ道具も売っている。
 それにしても鎖ガマなんて、日本じゃ見たことないぞー。

 しかしまだ小学校にもあがっていないニコラはニンジャという言葉を知らなかった。

「ニンジャって、なんだ?」
「んー、たとえば、壁とか窓とか、ぺたぺたと這い上がっていけるんだ」
「それじゃ、蠅みたいだな」
「(…こりゃ、たとえが悪かったか)…ま、とにかく、俺を怒らせると怖いんだぞ」
「蠅なんて怖くないよ」


 やはり最初の説明がまずかったようだ。私の dignity はすでに修復不能である。しかしなぜか、私はこの子がやたらと気に入った。やりとりを見ているパトリスもうれしそうである。

 とにかくこの二人の少ない、貴重な時間に、オピネルの話ばかりでニコラを退屈させるわけにはいかない。私は精一杯のサービス精神を発揮し、ニコラの放つピカチュウ光線に幾度ものけぞってみせた。

<写真>ニコラがコーラを飲んでいる<写真>
 別れ際、私の腕をつかんで振り回すニコラを、パトリスがさとした。

「おい、ニコラ。オイネルはおまえの友達じゃないんだぞ」

「僕の友達だよ」

 私もそれで、かまわない。
2000年 7月